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なぜラッパーは「レペゼン」するのか - 都築響一「ヒップホップの詩人たち」

ZEEBRAがテレビのバラエティに顔を出し、降谷建志がdisられる頃、私はまだ高校生。

「カラオケで歌う曲に関しては誰ともカブりたくない」と人一倍、ミーハー消えろと思っていた当時の私にとってラップソングというのは、浸るのにも歌うのにも最高の発明品だった。

高校生なりたての当初に聞いていたのは当然邦楽ラップ。
自分のまわりにこのジャンルに詳しい人もそれほどおらず、当時はテレビに出てくるような曲を中心に聴いていた。

洋楽ラップを好きになっていったのはもう少し後。
Eminemの「Stan」にヤラレた時からで、当時はリリック(歌詞)の内容も詳しく知らず、「いいトラックだなぁ」などと呑気もホドホドにしろよと思うほどだったが、少しずつ英語も読めだした頃に改めて歌詞を読んで衝撃を受けたものだった。

その頃から急にハマっていく曲も変わりだし、ラップをやるアーティストのバックボーンがリリックに乗っかってる、つまり、そのラッパー特有の苦しみや、それを乗り越えて掴んだ一筋の光を上手に歌詞に散りばめられている曲を愛すこととなる。
たとえば、Eminemに関しては「ダークストーリー・オブ・エミネム」を読んで、映画「8Mile」を観て、辛い家庭で育ちながらもマイク1本でスターダムにのし上がるその過程にとても感銘を受けた。

そんな私にうってつけの本が最近発売されたので、今回はその話。

BOOK



ヒップホップの詩人たち



都築 響一
新潮社
売り上げランキング: 7,232




しかし、先ほども書いたように、私はそれまでは割とキャッチーな(ファンからすればヒップホップと呼ぶことも怒られそうな)日本語ラップばかりを聴いていた。
学校へ行こう!」の「B-RAP HIGH SCHOOL」も毎週楽しみにしていたし、いま思えばこのジャンルを本当に好きな人にとっては、あの企画は半ば苦痛であったのかもしれないけども、そういう割と普通の学生だった。

だからこそ、こんなことに疑問を持ったりもした。

「なんでラッパーって、レペゼンレペゼン言いたがるんだろう。」

represent (レプリゼント・レペゼン)
~を代表する。レペゼン→レプリゼントを訛らせたもの

HipHop 2ch - [ スラング辞典 ]


要は「レペゼン福岡」と言えば、「オレは福岡代表としてここに立ってんだぜ」というか、そんなニュアンスなのだが、当時は「それって、逆にダサくねーか?」と考えていた。
別にお前の田舎アピールしなくていいじゃん、お前はお前なんだろ?と。

なんでみんな場所替えるだけで同じコトばっか言ってんの?
みんなで似たような、オリジナリティのかけらもないダサいことしてんの?と。

しかし、この本には当時の自分に読ませてあげたい、こうした疑問へのアンサーがたくさん載っている。
それはAnarchy(アナーキー)の章だけを読んでも十分なほどに――。

京都のラッパー、「Anarchy」


本書439ページからは大阪生まれ、「Anarchy」のラッパー人生が綴られている。
このあと動画を貼らせていただいているが、私は彼の「Fate」という曲をあるミックステープの中で聴いて衝撃を受けた。
彼のラッパーとしての物語は京都で始まる。

3歳の頃、彼は干拓地に生まれた殺風景な団地群「向島ニュータウン」に引っ越してくる。
そこは、名前を検索するとGoogle先生が第2検索ワードが「治安」と提示してくるような場所。
京都小学生殺害事件で「てるくはのる」が警察から逃げ、自殺を遂げた場所でもある。


"Fate" / Anarchy

(一部引用)
逃げ道団地 屋上からジャンプ
耳ふさぎたくなるようなニュース
例の現場並んだままのシューズ
未来すらクモの巣にからまる
抜け出すため運命に逆らう Motherfucker

「写真はあるんですけど、オカンの記憶はぜんぜんないんです。」
彼、Anarchyは「ヒップホップの詩人たち」の著者である都築響一氏にそう語る。

「オカンが俺を手放したんも、いまの俺ができた原因やし、言いかた換えたら、(手放してなければ)こうなれてなかったじゃないですか、俺がラッパーに。
そう思ってるんですよね。産んでくれてもいるし、手放してもくれたし、きっかけやったし。

だから捨てられたという気もないし。子供かて、結局は自分で決めて自分の足で歩いていくと俺は思ってるし、親父にもガキのころからそう言われてたし――
『俺がおまえにこういうふうに生きろと言って、おまえがそうするとは思わへん。おまえが決めんねやろ』って。
どうやったほうがいいとか、なにやったほうがいいとか、俺、そういうの親父に聞いたことないです。


俺がやりたいことだけをずっとやってきた、いままで。」

この言葉にも出てきたように、彼のこの考え方の主役は父親だ。
父親は「ロック」を地で行くような人で、現在54歳ながらロックンロールにのめり込み、ロカビリーバンドではヴォーカルとギターを担当し、アメ車を好む。
しかし何よりも「ロック」なのはその生き様の方であって、彼が中3の頃には突然瓦職人の仕事を辞め、刺青の彫師として修行を始めるほどであった。
(Anarchyの半身を覆う刺青も、彼の父が彫ったもの。)

そうなると彼の遊び場は家よりも外。団地群の間にある、小さな公園だった。

「だって家に帰っても寂しいコもいるじゃないですか。親も帰ってきてへんし、ご飯代だけ置いてあるコとかもいたし、そういうやつらは家に帰ってもつまんないですもんね。
俺はそういうやつらと遊んでたし、何時になっても公園があるし、みんないるからおもしろかったし。

だから俺もぜんぜん、家には興味がなかったし、寂しいとかも思ったことあんまないんですよね、正直。
これが違う街で育ってたら、もっと寂しかったと思うけど、そんなんで寂しいと言ってるのが恥ずかしいぐらいの、もっと寂しいやつとかいっぱいいたし、俺なんかまだ幸せやと思って。
ばあちゃん、メシ作ってくれるし、オトンも帰ってきいひんだけで別にいるし。
オトンに相談できひんくてもオカンに相談できたり、オカンにしか言えへんこととかみんなあるでしょ。
それ俺にはなかったけど、それが俺には仲間とか、そのときの恋人やったりしたし。」

彼にとって、父親は保護者というよりも、「男の生きざまを教えてくれる、かけがえのない先輩のような存在だったようだ」と都築氏は綴っている。

父親のアメリカンな感覚が彼に受け継がれたのか、少年時代はバスケットボールにハマる。
ヒップホップはその次だった。

初めてクラブに行ったのは中1。
都市部への憧れを刺激され、その知らない世界にワクワクしたという。

ちょうどヒップホップが盛り上がっていた当時。
少年は「ギターやるより簡単やわ」と思い、クラブの音楽や友人から回ってくるミックステープで新しい曲を聴きまくった。
その友人たちとは”あの”公園で集まってフリースタイル(音楽に合わせて即興でラップを繰り出すこと)の練習に明け暮れた。

やりたいと思ったことはすぐ始めるという彼はその後、なんと中3でクラブを借りて初パーティーを開く。
手描きのチケットをコンビニでコピーして隣の中学校などに配布、朝までパーティー。集まっているのは中学生。

風営法の適用が強化されている昨今では考えられないことだが、彼の影響を受けてラップを始めた同級生もいたという。
そんな彼が練習に使ったラジカセも、DJが使っていた楽器も、すべてスーパーや楽器屋から盗んできたものだったそうだ。

「1年間だけ暴走族やらせてくれ」


まさに自由を謳歌していた彼に、高校に進む理由はなかったのだろう。
卒業して、ラップ。
バイトして、ライブ。
「ふつうのB-BOYの生活してましたもんね。(Anarchy)」

だが、そんな束の間の牧歌的な生活がいきなり終わりを告げる。
毎年、宇治で開催されるアガタ祭り(地元の不良の間では「ケンカ祭り」と呼ばれるそう)の夜、仲間の1人が暴走族に襲われたのだ。

しかもそのとき、彼はその現場を目撃してしまう。
ボコボコにされる友人。
直近には100人ほどの暴走族。
彼はそんな暴走族に向かっていくことは出来なかった。

「親父のとこにも言いに行ったし、『1年間だけ暴走族やらせてくれって』。
親父も多分反対やったと思うし。
『なんでそんなダサいことやんねん』って。
『暴走族なんかカッコいい?』っていう考えやったし、親父も俺も。
暴走族なんかダサいと思ってたし。
親父には『あかんって言われてもやるやん』って言われたですけど。」

隠れてしまった――。
その敗北が悔しくて、次のアガタ祭りまでの1年間だけを目処に、「かまさなあかん」の一念で彼は仲間と族を結成する。

1年暴れ狂う中で、ケンカを通じて京都中の暴走族と仲良くなった。
そして、そんなみんなと「ANARCHY」というチーマーのようなグループを作った。
暴れまくった。そして、捕まった。

暴走族『悪妙』の総長として捕まった彼。
罪状の1つは日本で3例目の適用となった「決闘罪」であった。

「でも、捕まってよかったと思うんです。
あれ捕まらへんかったらたぶん、ズルズルやってたかもしらんし。
大怪我したかもしらんし、大怪我させたかもしらんし。
親父にも俺が捕まったときに、『安心した』って言われたですもんね。
『肩の荷が下りたし、ここから1年間はゆっくり寝れるわ』って。
『おまえが暴走族やってるときなんか寝れへんかった』って。
俺が死ぬかもしらんし、突っ込むかもしらんし、殺すかもしらんし、殺されるかもしらんじゃないですか。
そういう世界やから、やっぱ親からしたらね。
それは俺、そのときは考えられなかったけど、いまになれば、自分の息子がそれだとちょっとね。
そういうとこが、親父の好きなとこなんですよね。」

少年院を出たのは2000年の19歳のとき。ここからCDを自主制作しながら、バイトし、食いつなぐ生活へと入る。
1年間彼を待っていたというDJ(AKIO)が彼に「これでメシ食おうや」と声をかけてくれたからだ。

最初のCDは2000枚ほど作った。
売り方、稼ぎ方は分からなかったが、他にとるべき方法も分からなかった。
誰も自分たちのことなど知らないだろうと思い、どこかの会社にデモテープを送ろうとも考えなかった。

「いっしょにやりたいところもなかったから、自分で出すしかないかと。」

こう書くと未来が微かに見えたような明るさが垣間見えそうだが、当時の生活は最低だったという。

「ラップしてステージに立つために、カッコいい服着てカッコいい靴履くために、家でラーメン食ってたんちゃいますか。
親父がラーメン食ってアメ車乗ってたのと一緒で。
俺らラッパーでいるために安いメシ食ってたかもしらんし、我慢してたですよね。
それはいまでも全然そやし。
ハングリーさは俺、ぜんぜん変わってないです。」

この特に苦しい厳しい毎日は、2005年まで続いた。
しかしながら、これほど短期間でこれほどの成功を収めたラッパーは、日本のヒップホップ界では彼くらいだと都築氏はいう。
Anarchyも、「京都ぜんぶ見ても、ラップで食えてるのってたぶん、俺だけです」と言い切る。

食えなくても、グレーな仕事やりながらでも、それはヒップホップ。


タフな環境に育ち、より良い生活への夢を歌う彼はヒップホップを、「ラップで売れるという夢に向かって行くこと」そのものだと定義する。

「当時からいっしょにやってて、いまでも食えないやつ、いっぱいいます。
でも、それもヒップホップやと俺思うんですよね。
売れてるヤツだけがヒップホップじゃなくて、別に土方やってラップやってるヤツでも、カッコええやつなんかなんぼでもいるし、それを俺は恥じたらあかんと思てるんです。
その、いまの現状を。」

しかし彼は、その現状を変えたいと思っている。

「俺がほんまにぶっちぎったら、ほんまにヒップホップに光が当たれば、俺らの同士は全員メシ食えるかもしれないじゃないですか。
だれかが切り開くしかないんですよね。
いまの現状で上のやつらは満足してるかもしらんけど、俺はもうそんな上のやつらはどこかにやってでも、もっと切り開きたい。
いつまでも居座ってたら、あかんと思うんですよね。

だから俺らの時代なんか、もうちょっとしたら終わるんです。
俺はずっとカッコええラップ書くんですよ、
40歳になってもヤバいラップ書いてる自信はあるんですけど、もっとホットなカッコええやつが、いっぱい出てくるから。
そういうやつらを上げな、俺は意味ないと思うんです。」

京都を代表するラッパーとなったAnarchy。
彼はいまやその言葉通り、仲間=日本語ラップ界をも代表しているのだ。

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