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Wall Surrounded Journal

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11/30「日本は侵略国家であったのか」が問いかけるもの

 友人が知る学生時代の私の受験勉強へのわがままの1つにこんなものがある。

「歴史という教科は、これを認めない。」


 冗談のような書き方をしたために笑われてしまうだろうが、単に教科としての「歴史」が苦手だったということがその主要因だったのかもしれない(笑)
 だがそこに強引に私見を追加していったのだろうか、個人的に学びたくなる歴史にこそ興味は見い出せど、いわゆる学校が教える「歴史」に対しては一切興味が湧かなかった。実際、大学受験の際も全校では最も支持率の低かった地理を学習した。「歴史」どころか、社会の教科すべて、いやそれ以外も含めてすべての教科が出来なかったため、やはり単に歴史嫌いだったからそうなったのではないのだろう。

 歴史は繰り返されるというよりも「覆される」という思いが強い私が高校時代に一気に歴史に対する懐疑心を生じた事件が、かの「ゴッドハンド」である。


●旧石器捏造事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%8D%8F%E9%80%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6



 数学の定理や英語の文法とは異なり、歴史はねつ造され、歪曲され得る。そんな歴史は受動的な意味で「教えられる」ものではないと個人的に思う。ところが、どこの先進諸国も自分の生まれた国で歴史上起きたことについては当然のように勉強してきている。私がどれだけ教科としての「歴史」を否定しようとも、それが浅はかな私見であることには間違いがない。



 では、ここで問う。
歴史は無防備に教えられるものでいいのだろうか。

 
 我々は実に小さい頃から歴史を無防備に教えられてきている。
特に小学校の先生から教わる「れきし」は何の抵抗もなく知識の中枢に入ってきてしまう。「歴史」=「事実」あるいは数学の定理のように「前提」として入ってきてしまう。教科書が教える国家が提供する歴史認識が歴史教育の根幹にあるのだが、そこに加わるのが歴史を教える教師個人の*1「個人的な歴史認識」が何の抵抗もなく小さな子供たちに入ってくるのである。

                    
 だが、それらがすべて事実であるわけではないのは周知の通りである。
 そうやってあくまでも事実とは限らない「私見」を教えられることによって、無垢な子供たちの好奇心が逆にあだとなってしまうのだけは、やはり日本国民として許せない。どこの国の親だってそう思うことだろう。
 教育を受ける権利は重要だが、それが同時に義務となっている以上、そこに民意が反映されるべきは間違いがないと思う。したがって歴史についての国民の十分な議論がなくて「歴史」という教科が形成されることに、私は納得がいかない。だからこそ、歴史上のタブーや、核武装を「議論すること」そのものを奪ってはいけないのである。タブーはタブー扱いされるからこそ禁忌なのである。



 ようやくタイトルに結び付ける。
 田母神氏の「日本は侵略国家であったのか」という懸賞論文を読んでみた。それほど長くないので、皆様にもご一読いただきたい。


●日本は侵略国家であったのか
田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将)/apa.co.jp
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
(pdf非対応の方や非対応ケータイの方)→http://homepage2.nifty.com/oyouhei/tamogami.html



 この「日本は侵略国家であったのか」という問いには確かに彼個人の「日本は侵略国家ではなかった」という思いが滲み出てはいるが、私は読みながらに別の問いを見出した。それは「日本は侵略国家ではない」という見解を教えることは、やってはいけないのか?という問いである。


 教科としての「歴史」の最大の弱点の1つに近現代史の質と量の不足がある。
 現代のアジアに生きる我々にとって、縄文土器よりも「東京裁判」や「従軍慰安婦」などの知識の方がはるかに必要である。ところが、それらが歴史的に見てごく最近に当たる(=授業の年間スケジュールの問題上、端折られがちである)ということに加え、それらの歴史認識に対して特定の諸外国、または国内の特定の個人ならびに団体への配慮が必要らしく、公式見解が定めにくいことが我々がそれらを「教えられる」機会を奪っている。
 とどのつまり、我々の中にはごく小さい時に先生から教わった「れきし」が無意識的に残りやすい状況が形成されている。自己思考のない、ある意味で「一方的な」歴史観が国民の中には残存しやすくなっているのである。


 そんな状況において、この田母神氏の投げかけは、そのすべてが事実と呼べるものでないのは読めば明らかなものであるが、それならば学校の先生の歴史観だって同一なはずである。そんな教師先生独自の歴史教育だけを子供たちに受けさせることが正義で、田母神氏の主張が何の思考もなく社会悪とされることほど言論の自由の収奪であることはない。村山談話*2が政府の公式見解であることには何の相違もないのだが、言論の自由はその上に位置する憲法に謳われている。議論のない社会に未来はない。


 歴史が史実(≠事実)に基づく学問体系である以上、ゴッドハンドなねつ造や、とんちんかんでないすべての意見は抹殺されるべきでない。何よりも、それぞれの個人が持つ「歴史観」を、メディアや教育が奪ってはいけない。
 田母神氏ほどに偏った意見でさえも、全くあり得ない歴史観ではない以上、それも「アリ」とした上で、複数の、異なる歴史認識を同時に提供する。そんな歴史教育や、教科書こそ、いまの「教科としての歴史」に必要なものではないかと思う。

 必要な空気と土壌を与え、子供たち独自の「考える」を大事にする社会こそが、正義であると思うのだが。




◆毎日書きたいけど週1で甘んじている私はこんなに最後まで読んで下さった皆さんから記事(日記)に関するご意見や取り上げて欲しいことをコメントまたはメール(Germanium.yuta@gmail.com)で募集しています。何でもどうぞ。いつも読んで下さってありがとうございます。

*1:最近の話題まで勘案すれば「その教師が属する団体」…テーマから外れるのでやめておこうか(笑)

*2:http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/press/danwa/07/dmu_0815.html