Wall Surrounded Journal

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増えないパイを投げつける

息子が友だちとのゲームの話題についていけなくなるからマジコンを合法化しろ、だとか、生活保護受給してるがケースワーカーがネトゲの最中に来るのが邪魔だから止めさせる方法はないか、とかYahoo!知恵袋界隈はいつもホットだ。
たまには釣られてみよう。


こういう話になると、普通の生産者や納税者は怒りを覚えてしまう。
そりゃそうだ。自分の給与明細を見て、そのある項目が誰かの所得になっていて、それは決して安くはないからだ。
それがあればあなたは今以上の贅沢も貯蓄も出来る。家族に仕送りだって出来る。恋人と長電話出来るかもしれない。
なんと理不尽な世の中だろう。


ただ、それは同時に、モラルもプライドさえも捨ててしまえば、我々はもう「働かなくても娯楽の下に生きていける」世界を(一時的かもしれないが)手に入れてしまった*1ということでもある。

それでも労働者は「”働いたら負け”な政策が増えてきた」とはつぶやきながらも、毎日仕事により心を痛めたり、1つ1つのことに感動したり、生きがいを失ったり得たりして暮らしている。
「理不尽だなぁ」と思ったり。自分の知らないところで他人にそう思わせることもある。

しかも、低成長時代に差し掛かると、中には「これって何の意味があるんだろう」という仕事が増えてくる。それは価値だって生み出していないかもしれない。
いや、生み出してないんだったらやるだけ損失にも思える。
たとえそう思ったとしてもそれをやり続ける理由は、理不尽にあったりもする。意外にもそのおかげで何かが回っていたりもする。


この世は案外、理不尽で回ってる。
だって理不尽は主観だ*2。人と人が交わるところ、そこにはシナジーが生まれ、理不尽が生まれる。もちろん、indifferenceに逃げることもあるけど。


そしてそれは、その果実が再分配される主体も同じであったりもするだろう。
ひょっとしたら、”理不尽さ*3”は社会に流動性を与えてくれているのかもしれない。



1950年には,厚生省予算の46%が生活保護費であり,当時の全国民の40人に1人が 「健康で文化的な最低限度の生活」の水準まで引き上げられていた時代も、80年代にはすでに財政という名のシーリング(天井)を意識し始めていた。

今では1.3兆円の社会保障費が自然増となる時代だが、ソブリンリスクが叫ばれる時代に公債/GDP比は先進国では最大である。今回の参院選の民主党敗北(つまり、ねじれ)により財政再建が遅れたり、他党との連携による金融緩和圧力増大も懸念されている。格付け会社もそれらの点は日本国債の評価にネガティヴな影響を与える可能性があると捉えている。


たとえ財政削減の波を越えても、人口減の時代とはスリム化の時代である。
それはどこから削りだしても当事者には「理不尽だ」とも感じられる時代である。そして、それは他の、往々にして家族外の、誰かに生活の糧や安心や余裕を与えている。


自分が死ぬときにこんな質問をしたら、自分はいったい何と答えるだろうか。

「あなたの与えた理不尽の総和と、あなたの受けた理不尽の総和は等しかったですか?」

*1:頼むからバウチャー支給にして下さい

*2:これは利益を得る側も同じだ

*3:こんな事例http://www.hiramatsu-osaka.com/message/post-103.htmlを考えると、国内の流通に限るべきかどうかは今のところ分からない。