Wall Surrounded Journal

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渡邉恒雄をひっぱたけるか

基本的に終わった議論の蒸し返しになるので、読む必要はない文ではあるが、それでもいいよという方に読んでいただければ幸いに思う。
なお、タイトルにある人物は例示である。


あの身勝手な殺戮から、まだ2年しか経っていなかった。


秋葉原事件“自分の考え方が原因”(NHKニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100727/t10015998091000.html

加藤智大被告(27)は、おととし6月、東京・秋葉原の繁華街にトラックで突っ込み、通行人をはねたりナイフで刺したりして7人を殺害し、10人に重軽傷を負わせたとして殺人などの罪に問われています。27日から加藤被告への被告人質問が始まり、黒いスーツに白いワイシャツ姿で現れた加藤被告は、まず、「被害者やご遺族の方々に対しては申し訳なく思っています。私が何かを話したところで被害が回復することはないとわかっていますが、すべてを話すことが今自分にできる最低限のことだと思っています」と述べました。


さて、我々はこれを防げるのだろうか。

一時期「暗黙共同体」という概念が少し話題になったと聞いている。
リアルのコミュニケーションから押し出され、Webの世界でさえもコミュニティを失った者が最後にたどり着く、間接的な「似たもの同士」リンクのことをそう呼ぶ。


暗黙共同体へ−秋葉原事件で考える / 佐々木俊尚
http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/06/20/entry_27002871/

 しばらく前、硫化水素で自殺者が相次いだとき、アマゾンで興味深い現象が起きた。トイレ用の洗剤として良く知られている商品を調べると、「この商品を買っている人はこんな商品を買っています」というレコメンドに、自殺に関する書籍が多数表示されるようになったのだ。ついでに書籍と並んで、「薬用入浴剤」「天然湯の花」「特大ポリ袋」「結束ロック」「タイマーコンセント」などの商品もお勧めされていた。

 もちろんこれは、単なるショッピングサイトの、単なるレコメンデーションシステムという即物的な関係に過ぎない。硫化水素の原料や自殺本をアマゾンでまとめて買い込んだ人たちも、お互いの存在を直接的に認知できない。しかしアマゾンで硫化水素の原料を買った人たちは、「この商品を買った人は自殺本も買っています」というアマゾンの表示によって、自分と同じように人生に悩み、絶望し、自殺というオプションを現実的な選択肢として考えている人たちの存在を知り、自分と同じ人生の最後を選ぼうとしている人たちの存在を、おぼろげながら認識している。

 その関係は地縁でなければ血縁でもなく、利益でさえも結ばれていない。目的も存在しない。ただ「自殺に関連する商品を選んだ」という情報でつながっているだけだ。さらに言えば、情報でつながっていると言っても、マスメディアの作り出す情報の圏域と比べれば、自殺関連商品を選んだ人たちの圏域は、はるかに小さい。でも小さいからこそ、おぼろげであっても、「そこに誰かがいる」ということを、自分の目で確認できる。


人は誰かには理解されていたい。承認されていたい。もしくは、似たような境遇の存在を認知したい。
インターネットはそれらの「誰か」を文字列に置き換えることに成功している。
それは単なる文字列ではないかもしれないし、ひょっとしたら単なる文字列であっても同様の効果があるのかもしれない。

しかし、一般的な感覚からすれば、そういう暗黙の共同体は好ましいものではないだろう。こんな負のエネルギーの溜り場を目の当たりにしたいという感覚は普通ではないはずだ。
でも私は存在するといいな、と思う。決して見に行きはしないし、加担もしないけども。


たとえば、「共同体はどこへ行くか」みたいな議論がある。

地域との繋がり、また、隣人との付き合い。
それらが薄くなりましたよね、と。
中にはそれを「共同体の崩壊」のように捉える人がいる。

しかしそんなはずはなかろう。
村落共同体から「会社と家」の関係へと移行した日本社会。そしていま、現在の30代以下には新たな感覚が加わっていはいないだろうか―「定年まで同じ会社にいられるはずがない」という感覚が。
そうであるならば、「会社と家」でコミュニティ活動をマネージする価値は相対的に落ちていく。

そんな人々に対して、インターネットはそれを提供してくれる。
似た趣味の人、似た感覚を持つ人を探すには地域のコミュニティセンターに通うよりもSNStwitter、掲示板で探した方が遥かに効率的で広範的に仲間を探せる。
こうしてそれは越境的なコミュニティを生むことに成功する。

これはどう考えても新たな共同体への移行である。
ましてや、bewaadさんのようにリアルにおける所属という符号が邪魔にさえなり得る共同体なのだ。
で、あるからそこに「ネットでは実名であるべきか匿名を許容すべきか」という議論を持ち込むこと自体がナンセンスだ。


もちろんWebがその議論の前提でもあるノイズが多すぎる世界であることは疑いようがない。
私なんか何度「在日認定」を受けただろう。そのような批判にすらなってない、いや、非難にすらもなっていない、もはやノイズとしか呼べない言説をぶつけられてきただろう。

これらは本当に心が弱っているときには致命傷にすらなりかねない。
だから、秋葉原通り魔事件の被害者が率直に語るような

「インターネットの掲示板が動機の1つとのことだが正直理解できないし、20代とは思えない幼稚な印象を受ける。」

という認識のミスマッチは起こる。
だから加藤のような人にとって、”たかが掲示板”が殺害の動機の1つにすらなってくる。*1

しかも、加藤のような人にとっては、

事件直前まで派遣社員として加藤被告と同じ自動車部品工場で働いていた元同僚の31歳の男性は、加藤被告が「インターネットの掲示板が自分が自分でいられる場所だ」などと話していたことに関して、「どういう気持ちで書き込んでいるのか掲示板じゃわからない。近くにいる人が、いちばんわかるはずなのに、訴えるべきところをまちがえていると思う。いつでも聞いてあげる姿勢でいたのに」と話しました。

という物理的距離の近しい人とのコミュニケーションのミスマッチさえ起きてしまうのだ。
「近くにいる人が、いちばんわかるはず」という認識は、おそらく加藤にはない。あったならば、”たかが”掲示板は動機になりえない。


これまた2007年と少し前になるのだが、赤木智弘氏の”「丸山眞男」をひっぱたきたい -- 31歳フリーター。希望は、戦争。”という文章が話題になった。私はそれを池田信夫氏の希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学で引用のみ読んだことがあったのだが、この度原文を読むことにした。
時間があられる方はそれに対する反論にさらにレスポンスしたけっきょく、「自己責任」 ですか(赤木智弘)続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んでまで読まれるといいかもしれない。

これは31歳のフリーターという、社会からは「自己責任」で片付けられがちな男性が戦争に希望を求めるという刺激的な文章である。
そして、それに対するいわゆる大人のレスポンスが全く的を得ていない、というなんだか朝まで生テレビみたいなことが展開されるわけである。
つまり彼ら1人1人が「丸山眞男」なのである。

しかも、この隔絶が続くことは彼にとっては”「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しない”と言わせしめ、戦争という選択肢を与えるものである。


いま、この種の絶望に陥る若い世代が少しずつ、しかし着実に増えているように感じる。赤木は「若者の右傾化」にそれを見出している。
そう考えると、もしあの秋葉原事件を社会の大部分が「社会の病理」としか捉えられなかったら、戦争とまではいかないまでも、ある種のカオスは必然に起きると考えている。


これは別に脅しじゃない。
私はそれを望まないし、赤木智弘だって望んでいない。
だが、赤木が冒頭からいきなり”平和”の意味を問うたのはきっとそういうことだろう。「社会の病理」と捉えたときにその人は、その「社会」と自分自身とを無意識に切り離しすぎているのかもしれない。

以前、「戦争する自由はあるのか」と不特定多数に何とはなしに問うたとき、あるフォロワーさんからこんなお答えをいただいた。
「戦争する自由」ではなく、「暴力に対するコントロールがある程度か失われているのが戦争」であり、「完全に失われるとカオス。カオスは自由ではない。暴力が管理されているのが平和で、暴力に関するオプションが一番多い…つまり暴力からの自由」が存在するのだというお答えを頂戴したことがある。

さて、この「管理」とはいかにして実現されるものであろうか。
無論、完全な管理は有り得ないが、いま私が考えているのは、きっとその「管理」の対義語が先程示した「絶望」であろうということだ。

*1:もちろんオレが加藤を憎んでいるのは前提だが。