Wall Surrounded Journal

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デマ拡散と”条件反射”

震災直後から話題になっていたテーマの1つに「デマの拡散」がある。

数量的なデータで表現しにくいテーマのため、抽象的な話になりやすいが、大分それについての論点も整理されてきた。
個人的にも震災前には「この人はあまりデマを流す人ではないだろう」と思っていた人が、どこにもソースがないデマを、おいそれと流してしまう場面にかなり遭遇することがあった。

今回は未曾有の大地震に限らず、原発事故の影響、また、それに伴う電力喪失および物資の不足など、人々を混乱させる要因があらゆる角度から襲ってくる事態となった。
それらはどのように我々をソースなきデマ拡散へと駆り立てたのだろうか。
今後も繰り返すであろうから、現時点で少しだけその点を振り返っておきたい。


なお、今回発生し、拡散されたデマの例は

●「震災後のデマ80件を分類整理して見えてきたパニック時の社会心理」 ― 松永英明
http://www.kotono8.com/2011/04/08dema.html

で見ることができる。

情報需給のショック的増加と質的悪化

今回は前回でも触れた情報不足という問題が横たわっていたわけだが、それと同時に、情報の洪水も発生していた。
特に原発事故および放射性物質の飛散に関する情報については、原発の推進ならびに運用そのものが「ザ・国家的システム」であったため、公的機関や企業がリリースする情報に対する不信も情報不足に重なり、関連情報が多様かつ大量にWeb上を駆け巡った。

また、ニュースサイト等では震災直後のページビュー、UU(利用者数)等も拡大しており、普段は積極的にネットを利用しない層が大量に流入したということも、そこに拍車をかけたものと思われる。

これらをみると、震災以降はそれ以前と比較して「デマが拡散しやすい環境が形成された」ということについては、信じていいように思う。

混乱期には存在しない「関連性」を見出したくなる

今回のテーマを考察する上では、個人としてコントロールできない事態への反応として、その個々人が「秩序の感覚と環境中の構造を知覚的に再構築を行う」という"補償コントロール"の例を取り上げたエントリが興味深かった。
以下に引用する。

過去の相関および人類学的発見から、Whitson and Galinsky [2008]は「コントロールの喪失が人々を、それが架空のものであっても、環境中の様々なパターン認識へ誘うこと」を実験的に示した。

彼らは個々人のコントロールの感覚を取り去ることで、人々を(a) 日々の世界の構造の必要性への導き (b) 意味のない画像を見せて (c) ランダムで無関係な行為が、迷信や陰謀論など因果関係があると信じさせた。

たとえば、ある研究では、コントロール喪失の経験を思い出させ、指定した迷信的行動を起こすことを動機付けた。
世界がランダムではないとみる必要性はあまりに強く、世界を秩序ある状態にもどすために、人々はノイズにパターンを見出した。さらに、コントロールへの脅威は認識をひずめるだけでなく、真のパターンの学習と発見を誘導する[Proulx and Heine in press]。これらのプロセスは、我々が最も基本的な補償コントロールの具体例である。

●「コントロールの回復と政府支持」― 忘却からの帰還
http://transact.seesaa.net/article/194608014.html

要は、危機下ほど、ランダムな独立事象の間に関連性(パターン)を見出したがるわけである。
実際、自分も2週間近く満足にトイレットペーパーが入手できなかった。

そして、この関連性の発見は個々人の属するクラスタ(属性)に基づいて行われやすいように思う。
その理由として、「権威を信じられない」状況下では、各人の価値観に近い組織の見解(関連性の提示)を相対的に信頼するからだ。
たとえば、日本国政府の情報・国内主要メディアの情報よりも、明確にソースを欠いている海外情報源を信じる日本人も、今回ある程度存在したように記憶している。

なお、先程「クラスタ(属性)」と書いたのは、今回のような個人にとって「信頼に値する組織」そのものが存在しにくかった状況を想定しているわけだが、同時にソーシャルメディア環境下も意識している。


ここで、再び前記ソースから引用する。

システム正当化理論のもとでの研究[Jost, Banaji, & Nosek, 2004; Kay et al., 2007]で、人々が日常的に社会政治システム(政府や大学や機関など)を擁護し、正統化することが繰り返し示されてきた。

我々は、「これらのシステムがコントロールの補償源となりうることから、システム正当化が非常に強く、個人のコントロールが脅かされたときに、人々は社会政治機関が提示する構造への信仰を強めること」を示した。

個人的なコントロールの感覚の増加よりも、これらの信仰の方が「イベントがランダムで行き当たりばったりではないと感じる我々の必要性」に応えている。これが我々の補償コントロールモデルの中核である。


実験研究で、Kay et al[2008]は、「過去にあったコントロール不能なイベントを思い出すことによる個人的コントロールの低下の感覚が現政権への指示を強め、個人的コントロール感が強いと、政府を批判したくなる[Shepherd & Kay, 2009]」ことを示した。

これらの実験結果は、個人的コントロール感と政府支持に負の相関があることを示した67か国にわたる調査[Kay et al 2008]にって補強される。

制度的支援や個人的なコントロールの相互関係も示されている。「不正をただすことに失敗した政府について書かれた記事を読むことで」人々の政府への信仰を弱めると、個人的コントロールの幻想が増大する[Kay et al 2008]、したがって、政府機関のようなコントロールの外部ソースに対する擁護は、個人的コントロール認識によって置き換え可能である。


面白いことに、自分たちの最善の利益について警戒すべきものとして政府を見ている人々では、上記の発見は弱くなる。

個人的コントロールを弱めるように操作すると、政府が慈悲深いとみている被験者のみが、政府支持を強めた。そして、個人的コントロールの低下と政府支持の増加の相関は、腐敗した国では最も弱かった。

しかし、我々は補償コントロールが慈悲深い外部システムのみで起きるとは考えていない。むしろ、「人々が外部組織を選択するにあたって、より慈悲深い機関を選好する」と考えている。

この話を終えるにあたって、腐敗した国々の被験者も、小さいながらも有意に、個人的コントロール減少時に政府コントロールを選好することに留意すべきである。

それでもパニック下では条件反射してしまう

これらを見るに、危機下であろうが平常時であろうが、重要なのはやはり「自分と、参照元の思考バイアスを認識すること」に変わりはない。
中庸を目指せということではなく、むしろそれぞれが中庸でないことを認知すべきということだ。

しかし、(あくまでも個人的なお話だが、)今回は「それすらも裏切られる状況」にあったことを冒頭で述べた。その部分はやはり*1パニック要因が大きいのではないかと今のところは思っている。

筑波大学大学院の仲田誠教授が東京大学在学中に書かれた災害と日本人−「心理的現象」としての自然災害−関東大震災直後の(主に「日本人」をテーマに)危機状況下での人間の反応の分析を行っている。
当時のアンケートを元に考察されているので、一読を推奨するが、結論としてはこうした危機時には我々はそれぞれの「独特の心理的・精神的反応を示す傾向がある」ということである。*2

ただ、先程の「パニック」という言葉を使った部分を「条件反射*3」と置き換えると、前項まで述べてきたことと本項の内容がまんざら無関係であるとは思えない自分がいる。


冒頭にも書いたように、今後もデマは目の前に現れる続ける。
私としては、松永英明氏の述べるように、

もちろん、悪意による攻撃を意図したデマが最も重大であることは言うまでもない。
少なくとも、わたしたちは意図的にこのようなデマを作成したり、その流布に荷担したりしないようにする必要がある。
そして、そういうデマに荷担することは、自分自身の品性を貶める(自分自身を損ない、傷つける)行為だと自覚する必要がある。

を常に意識していきたいところだ。

自分が加担してしまったと認識した際には、素早い訂正の表明と記述の削除(可能な場合)が必要なのは言うまでもない。

*1:割と「逃げ」な表現であることは自覚的にも、

*2:原文の主眼はそこではなく、そこに現れる「日本人」フィルターを見出すことにある。

*3:http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/conditioned_reflex1.html