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Wall Surrounded Journal

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資格はあなたを救うのか

英語は女を救うのか(双書Zero )

英語は女を救うのか(双書Zero )

この書籍のタイトルを見て、何かしらグッと感じた方は読んでみるといいと思う。

この「英語は女を救うのか」というタイトルは、非常に曖昧な問いかけにもかかわらず、おぼろげながらも、この本では何について語られているのかが想像されないだろうか。

曖昧なまま語るにも弊害があるので、少しだけ具体的に見てみたい。
たとえば、英会話学校のWebサイトはこんな感じだ。

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このように、何かしら「英語」という単語を聞いたときに、どこか自分の次のステップを開いてくれるような、新たな世界を開いてくれるような、そんなイメージを持つ人は少なくないのではないだろうか。

英語は国際語であって、日本人は時に英語圏に対する劣位を感じることもある。それも明確な根拠もなく、だ。多くの人にとって、おそらく、なんとなく、英語はかっこいい。

さて、これが「女を救う」とはどういうことか。

日本を振り返ってみよう。
こちらでは「日本」という単語に対し、何らかの閉塞感さえ感じる人がいる。

「日本の女性」とさらに限定すると、そこには上記に加え、ジェンダーの差異さえ感じられてこないだろうか。

そしてそこから「救われる」ということ。
おそらくそれが、「英語は女を救うのか」というタイトルから想起されるものではないだろうか。


本書の序盤では英語を学ぶ女性と教える女性からのインタビューを交え、「英語と女性」について様々な角度から見つめている。

たとえば、英会話教室の生徒と講師を見てみたところで、彼女らは決して対比的に描かれない。

一般職の仕事に限界を感じた女性、きついのに単調な勤務の看護士の女性。
そうした何らかの閉塞感に覆われた彼女らが「英語に救いを求める」というのも、それほど無理な話ではない。

仕事内容もプライベートも、何も変わらない世界。青年海外協力隊に病院を辞めていった先輩。
動機はそれに救いを求めた女性*1の数だけある。
どこか、彼女らは「向こう側」を求めている。それがどこかは分からない。さして言えばユートピア的にも思える。

一方、当たり前かもしれないが、ほとんどの講師はその「向こう側」にはいない。
しかし、「向こう側」にいるということを演じなければならない存在でもある。

生徒さんがいるところでネイティブの先生と話さなきゃいけないとき、めちゃくちゃ緊張しますね。見られてるーって。アメリカン・ジェスチャーですよ。発音もそれっぽくして。文法はたぶんめちゃくちゃだけど、英語で話せていいなって思ってもらえるように。(23歳・英会話スクール勤務)

生徒を何人抱えたか、また、自社教材をどれだけ売ったか。
それが問われる職種でもある。

授業と授業の間に教材のコピーをとって、スタッフさんから頼まれた英文チェックもやって、ご飯も食べて休む暇もなく。
・・・・ふと、ラウンジが見えるじゃないですか。そしたら生徒さんたちが早く来て待ってるんですよね。みんなきれいなの。メイクも完璧で、雑誌に載っているようなお洋服で。こっちはぼろぼろ。(33歳・英語講師)

こうして講師と生徒の関係はあちらが立てばこちらが立たずで、絡み合っていて、結局浮かび上がるのは「あちら側」の幻影性ばかりだ。そんな言葉はないだろうけど。
そして、この蜃気楼は英会話講師に限らず、普段英語で仕事をやっているような女性にも舞い降りてくる。

果たしてそんな「英語は女を救うのか」。
彼女らにとって、英語とは確かに役立つ「ツール」ではあるが、「魔法の杖」ではなく、むしろ使い勝手の悪い道具かもしれない、と著者はインタビューの後で語る。

そもそも「英語は女を救うのか」という問いかけ自体をおかしいと思う方も少なくないだろう。
しかし、そこには英語でなくても*2救われていた女性もいれば、英語が心理的なサポートとなっている女性もいる。

そして、その現象は個人的に、著者の意図とは別かもしれないが、示唆的であった。

著者は本の最終部でオードリー・ロードのこんな比喩を引用する。

私達の差異を、私達の力に変えなければならない。なぜなら、主人の道具は決して主人の家を壊すことはできないから。私達は彼らが作ったゲームにおいて、つかの間の勝利を味わうことがあるかもしれないけれど、それで真の変化をもたらすことなどできない。主人の家だけが私を守ってくれるとおもっているような女達には、これはおそろしい事実だろうけれど。


ここまで「英語は女を救うのか」という問いを幾つも重ねてきたけれど、やはりこれを「英語」は「女性」を救うのかだけを問うて終わるには勿体無いように個人的には思う。

女性か男性かなんて区別もいらない。
英語は資格として少し特異的であるが、それを弁護士資格や公認会計士に置き換えても似たようなストーリーはどこかにある。

Googleの翻訳機能がさらに使えるようになるにつれ、会計ソフトの機能が劇的に上がるにつれ、我々は同様の問いに遭遇しやしないだろうか。

そんなとき、前述の比喩に至るまでの本書の議論は何かを与えてくれるかもしれない。

*1:後に述べるが、当然に何も女性に限られるお話でもない

*2:アロマとかピラティスとか料理とかでも。