Wall Surrounded Journal

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「起業家」なんて消えればいい

また新しくサイトを運営することになりました。

50+
http://fiftyplus.jp/

そこでは担当者が持ち回りで記事を書くことにしておりまして、今回はスタートということもあって私が担当いたしました。
このエントリは、そこで書いたものを再構成したものです。

「起業家」なんて消えればいい

ステキだな、と思える方と出会ったら、この人と何か面白いことできないかな?と、いつもそう考えている。
だから自分が接する相手が、心の中で(密かに)思っている「これやってみたいな」を言葉にしてもらうことはこの上ない喜びであるし、ましてや、それを何らかのカタチにしてもらえたら、自分のことのようにうれしい。
なぜなら、自分はその人のことをステキだと思っていて、そのステキだと思っている人のアクションもまたステキだからだ。

だけれども、「起業家」なんてのは消えればいいと思う。そんな概念が消えてくれるとステキだな、と思う。
確かに起業して成功するヤツも失敗するヤツもどこかカッコイイし、実際に尊敬する局面は山ほどある。
だが、「起業を増やそう」というような取り組みには、自分はさほど乗り気ではない。

第一、「起業家」と語ったところで何なんすかそれはという感覚は「経済評論家」や「ジャーナリスト」のそれとあまり変わらない。
それはまだ、「片付けコンサルタント」と名乗る方が誠実に聞こえてしまうほどだ(これも1つのサクセスストーリーにすぎないわけだが)。

「個人の時代」という概念が少しずつ語られてくるにつれ、最近では「自己ブランディング」なる言葉を見かけるようになった。
それは自分をよく見せる方法を確立して、周囲からみた自分のイメージ(主にWeb上でのイメージ)をよくしましょうというもので、昨今のソーシャルツールの認知度の高まりに沿って語られる回数が増えてきた単語である。

そして、その概念は「起業家」以上に気持ち悪い。
その気持ち悪さといえば、悪い評価が一切ないクチコミサイトを見たときのそれと、ひょっとしたら同じで、そもそも何のためにブランド化するのかといえば、ブランド化するためにブランド化するんだと言っているようにしか私には聞こえなくなってしまったほどだ。

だが、「社会」に対する「個人」という概念は想像していたよりも難しく、誤解を生みやすく、理解しにくい。
それは、「個人」という単語があまりにもあふれているからでもある。
F.A.ハイエクは「個人主義と経済秩序」の中でこのように述べている。

A・ファーガソンが述べているように、「諸国家は偶然に誕生したのであって、それは人間の行為の結果ではあるが、人間の設計の結果ではない」のである。そして自由な人間の自然発生的な協力は、個々人の知性が完全には理解しえないような偉大なものをしばしば創造するということである。

本当に「個人の時代」が来ている、あるいは、来ようとしているのならば、「自己ブランディング」とやらが実現するものは「履歴書のソーシャル化」くらいに過ぎない。
そんなのはそういうものが趣味な人だけがやればいいと思う。

改めて、冒頭の話に戻ろう。
「起業家」なんてのは消えればいい。
だが、より正確には「起業」という言葉自体に消えて欲しいと思っている。

起業したことそのものが何らかの尊敬や自負の対象になることが、起業することが何らかのハードルであることが、いったい誰の幸せになるのだろう。
もちろん、そのことが誰かしらの幸せになっていることも事実だろうが、そんなものはやっぱり別の何かの実現が遠のくという不幸せでオフセットされていると信じている。

だから、起業家という言葉は自己ブランディングだ。
だから、その言葉は気持ち悪い。心からそう思う。

だから、「起業」という言葉がない社会が少しでも早く実現すればいいな、と思っている。