Wall Surrounded Journal

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12/7「ハケン」の「ハ」

師走の第1回。
 今年も実にいろいろなことがあった。今年の漢字は今週発表予定だ。
昨年は「偽」だったが、今年は何になるだろうか。少し考えてみたが、私なら「破」かもしれない。
金融、食の安全、自民党の見事なまでの破綻はもはや元には戻れないレベルにまで達した。
一方、「通り魔」や「テロ」とも表現された一般人の常軌を逸した破壊活動がマスコミで大きく取り上げられ、日本を震撼させた。
また、北朝鮮、麻生政権の約束破りは周知の通りであり、私が以前取り上げた「国籍法改正案」についても先日ついに参議院を通った。この国が徐々に破滅へと導かれている…そんな見方も有り得ないとは決して言えない。
 そしてもう1つ、もう破れかぶれともなっているのが労使関係だ。
今年最も話題となった著書は新書ではなかった。「蟹工船」である。
小林多喜二氏が描く、経営者に酷使される労働者たちの悲惨な有り様が現代の派遣社員の置かれた状況にマッチしているとかしてないとか。今年、さぞ共産党は賑わったことだろう。


 さて、今週のテーマだ。
これまでにない規模の「派遣切り」が行われようとしている。私は「労働力」という商品を使用者に対して提供する労働者である。雇う側と雇われる側、労使の間にはモノやサービスといった消費商品を売る側と買う側の関係と同様に契約関係が存在する。
派遣社員の場合、正社員以上に重要となる契約内容はその雇用期間である。しかし今週、雇用期間満了を待たずに解雇予告をされてしまう多くの派遣社員が声を張り上げた。


●自動車減産 解雇の通知
YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/national/kishimu/kishimu081204.htm

●その他、「派遣 解雇」のニュース検索
http://news.google.co.jp/news?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGIH_jaJP271JP271&q=%E6%B4%BE%E9%81%A3%E3%80%80%E8%A7%A3%E9%9B%87&um=1&sa=X&oi=news_group&resnum=1&ct=title



ある意味「契約違反」ともいえる。
だが、「法律違反」ではない。


●契約期間途中で解雇できるか
わーくわくネットひろしま
http://www.work2.pref.hiroshima.jp/docs/1468/C1468.html


 「やむを得ない事由」がある以上、雇用調整は行われてしまう。(だが、解雇予告金支払いのコストや損害賠償のリスクは企業も負う。解雇=それ以降の負担の終わりを即座に示すものではない。)
その「やむを得なくなった理由」については、また書かないといけないだろう。

 今年は派遣制度にとっての大規模な転換が始まった年と言えるかもしれない。
それは派遣制度の「破」綻を示すものなのだろうか。現在の労働市場の揺らぎの根源は派遣にあるのだろうか。皆が好き勝手にモノをいう以上、本件に関する自分の意見は自分で持ちたい。
そういった理由もあり、久々に1日かけて1冊本を読んだ。


●労働再規制―反転の構図を読みとく
五十嵐 仁
https://www.amazon.co.jp/dp/4480064508?tag=finap-22&camp=1027&creative=7407&linkCode=as4&creativeASIN=4480064508&adid=0H37RXJPRW04ECQE9Z7P&


 派遣労働を語る上で外せない人物と言えば当然小泉純一郎氏である。
派遣制度の問題を指摘する際には必ずといっていいほど小泉―竹中ラインが指摘される。それは規制緩和の象徴であったし、世界を1度は席巻した新自由主義の日本襲来を意味していたとの指摘も強い。五十嵐氏は2006年を1つの軸とし、小泉氏の規制緩和への流れが再び、規制の動きへ転換を進めていると指摘している。確かに緩和、緩和の声は最近ではほとんど聞かれず、再規制へ向かっているという確証とは言わないまでも実感はある。それを彼は「官の逆襲」と呼んでいる。規制を強めて権益を得ていたのが各省庁や官僚であったから小泉氏は既得権の打破を主張していたのであって、その小泉路線が失われてきた現状、「再規制の現状」においては、官が再び権益を得ることになる。


 これが派遣労働と何の関係があるのかといえば、その「規制緩和」の流れの1つに「派遣労働法の緩和」があるからだ。労働者派遣法の成立自体は1985年6月にも遡る。しかしながら、対象業種は非常に限定的であった。何故か。それは「労働商品」における契約とモノやサービスといった消費商品における契約関係に違いがあるからだ。
 なぜ「労働基準法」といった法律で労働基準を雁字搦めに縛る必要があるのか。それは使用者(雇う側)が労働者に比べ圧倒的に強い立場にあるからだ。無法状態において算数の教科書に登場するような、けん君とゆう子ちゃんならばりんごとみかんの適正な取引は出来るだろうが、ジャイアンとのび太の間ならそうはいかないだろう。であるならば適正な取引となるようにジャイアンを規制したり、のび太に道具を与えるなりしないといけない。それが「労働基準法」による契約条件是正の意図するものである。
前述の「労働商品における契約と消費商品における契約関係の違い」がそこにある。金を払う側とその金をもらって生活する側とで自由な契約が出来るはずがないことは、地主と小作人の間に見るように歴史的に見ても明らかである。だから労働契約は特に法で規制される。


 しかしながら規制をすることは規制を行う側(この場合は官)に特権を与える。それは既得権益の打破を打ち出す小泉政権、また台頭していた新自由主義リベラリズム)の目の敵となった(なぜ台頭してきたかについては「ワシントン・コンセンサス)などで検索かけて下さい)。また、「失われた10年」から抜け出せない日本にとって先進的なアメリカの制度を取り入れたいする意見も経営者を中心に増えていった。そうした経緯もあって労働者派遣法も2003年改正され(翌年施行)、ついに冒頭のいすゞ自動車も含む、製造業種への派遣が可能となる。それ以前に「グッドウィル」のような労働者派遣事業の許可基準も改正されており、派遣紹介業も可能となっている。小泉政権が打ち出した「雇用の流動化」はこうして実現されていった。
 しかしこうしたリベラルな政策が今年までに次々と破綻していったのは明らかである。私が思うに、「11/8日本は変われないなと思った瞬間」での指摘と重なるが、景気が緩やかに拡大し続けるという前提の下では安定的な政策であったのかもしれない。だが、この100年に1度の市場の動揺、冷え込みの中では厳しい逆風にさらされてしまう。まぁその前提自体が誤りであるから必然的に誤りとされてしまいがちなのであるが、同じようにサブプライム問題の顕在化に伴って、派遣労働そのものへの風当たりも非常に厳しくなった。


 しかし現状の派遣批判はあまりに見方が一方的すぎないかという思いはある。確かに官から奪った権益は民へと移動したが、グッドウィルグループの事件に代表されるようにそれが果して良かったのかと言われれば疑問符を付すだけではとどまらない疑義が生じる。だが、国民が派遣制度によって損だけを被ったのかと言われれば、そうは言い切れないだろう。何故ならば、いわばブームとも言うべき派遣業界の隆盛はそのマーケットの構成員たる派遣労働者によってしか成立し得ないからである。要は「ハケンでいい」もしくは「ハケンがいい」という需要が大きくあったからこそ、派遣労働という形態が成り立っているという指摘をしたいのである。そして派遣は正社員、期間工以上に(今回はその期間工も対象となっているのだが)「調整」の対象となりやすい。それは労働契約前に明らかだった事項である。それを是として当事者はハケンとなることを選んだ。そして所属する企業の業績が悪くなった。今や正社員だって属する企業の財務内容を調べる時代である以上、「自己責任」との意見に対しては反論は難しいし、実際にされてもいない。確かにこの「自己責任」という言葉自体が小泉政権の象徴の1つであるのは間違いないし、そこからの転換が進み続けている現状ではあるが、その指摘は決して「誤り」ではない。


 前掲の図書ではそうした「アメリカ流」の雇用制度が「日本流」の雇用制度を侵食してきた流れの「反転」を指摘した上で、終盤で急激かつ多少強引にこうした結論を持ってきている。以下、引用する。



>"つまり、日本の国民は、アメリカのような新自由主義の社会など望んでいないということです。同時に、かつての日本のような官僚支配の復活を嫌い、北欧のような社会保障の充実を求めていることが分かります。(中略)

 民意は、「第三の道」を求めているということでしょう。新自由主義的な「アメリカ型」でも古い「日本型」でもない、もう一つの新しい道が提起されなければなりません。それに成功したときこそ、この日本においても本当の「反転」が始まるのではないでしょうか。

 福田首相による突然の辞任の背景には、「アメリカ型」と「日本型」をめぐる亀裂と対立が存在しました。構造改革路線の継承か転換かという対立です。「二〇〇六年の転換」以来の小泉路線からの反転によって、この亀裂は拡大し続けてきました。
 福田首相はこのいずれとも異なる「第三の道」を提起できず、進退窮まって政権を投げ出してしまったのです。こうして、本当の「反転」に向けての選択は、国民の手に委ねられることになりました。どのような答えを出すかが、問われることになったのです。"



 強引と言ったのは結論ではなく、第1文「つまり、」で始まる部分へのアプローチに対してであり、国民の答えが問われているという部分は正確な意見である。北欧のような社会保障の充実が官僚支配とならない確証はないし、その根拠となるのが1つのサンプルサイズ1500の世論調査(「世論調査:日本人はどのような社会経済システムを望んでいるのか」www.csdemocracy.com/ronkou/yamaguchi080301.html)のみというのも少し弱い。だが、確かにアメリカ型からの反転が日本型への単純な回帰でもいいのかと言われれば疑問はある。だからこそ、著者はその反転を「官の逆襲」と述べ、そう呼べる理由を示してきたのだろう。
 結論だけを抜き出したが、それ以前の大部分ではこれまでに至る労働諸法の改正が国民不在で行われてきたことが書かれているように私は思う。小泉政権下では官の意見が労働政策に反映されないように、2006年の転換以降は経営者、使用者側の意見が反映されないようにと、官民(「民」では特に経営者)の水面下の戦いが述べられている。だが、それはそれ自体の趣深い見方と同時に雇われる側、労働者の意見がいかに政策に反映されなかったか、また現在もされていないかということを浮き彫りにしている。


 結局、必要なのは我々固有の意見の集合であり、それが反映されるシステムも同様である。
そんな状況において、実際に、その問題とされる派遣制度の恩恵を受けて雇われる側は何を求めているのだろうか。いわゆる「セーフティネット」があればそれでいいのか、それはどの程度のものなのか。それとも解雇されない制度が必要なのか、だが解雇されないならば会社と運命を共にする気はあるのか。「ワーク・ライフ・バランス」とは具体的に、数値的に何なのか。必要なのは一方的でない、具体的かつ、双方向的、未来志向的な各々の意見である。無責任な発言はこの国の労働政策を更なる混乱に導くことにも繋がりかねない。さぁ、「言いたいことも言えない世の中」から「言いたいことも反映されない世の中」までは来た今、何を打「破」していこうか。