Wall Surrounded Journal

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改革なき時代の「次」・・・を素人が想像。

「この不況は構造的だと思うか?」

今年の3月ごろ、あれは日経平均が7000円台だったときのことだと思う。
こういう質問を受け、私は彼の考えと真逆の回答をした。


「そう思いますね。」


今から思えばそのときは「日本経済がアメリカに依存する状況は変化なく、ここまで来ればアメリカの一般消費が危機以前の水準まで回復するはずがないから」くらいにしか考えていなかったのかもしれない。


しかし、今はその「構造的」と感じた不景気から中短期的には立ち直りそうな空気が足元に感じられる。確かに、我々はもうアメリカだけを見ているのではない気もする。だが、それにより別の懸念が今、私の中にある。それは「この不況を利用するチャンスを楽観論により失うのではないか」という不安である。



思えばこの失われた10年、いや20年。
それぞれの世代がそれぞれの苦しみを味わってきた。
その苦しみは、少々過大な表現かもしれないが雑感としては以下のように思う。


・中高年は「まやかしの成果主義」である上司からの一方向からのみの能力査定主義によって賃金を低下させられた。
・そして、新卒の人々はそもそも雇われる機会を過度に失った。
・その間の層は「正社員」という立場の維持のため、労組などを通じ「賃上げを要求しない」という条件を受け入れ、手当てのつかない時間外勤務を引き受けてきた。

この前提がそれなりにLost Decadesの表現として正しいのだとすれば、この中でどれが一番虚しいかと言われればそれは就職氷河期の世代だろう。
逆に以上の雑感が間違いだとお思いならば、これより先は読む必要がないように思う。



さて、じゃあその「就職氷河期の世代」の10年先の新卒たちは彼らより恵まれていると言えるであろうか。
アメリカの景気および消費の拡大期、特に日本の金融機関の不良債権処理が一応の決着を見せて以降〜サブプライム問題が顕在化するまでの間の新卒は相対的に恵まれていたかもしれない。何故ならばこの前後の新卒主義というものは企業の採用枠そのものを景気変動させてきたからだ。

ところが、住宅バブルがはじけた今はかつての氷河期世代でさえ「自分のときよりかわいそう」と思うほど、新卒に割り当てられる職はない。
自分はその景気拡大期に比較的ラクに職につけた立場であるので真に彼らをかわいそうだと思っている。




そして昨今、その景気拡大期に新卒も中途もひっくるめて職を与えてきた「ハケン」が見直されようとしている。見直しは確かに重要だ。なぜなら派遣制度についての経済財政諮問会議での議論の中に派遣社員の意見は不在だった。
だから派遣社員が企業にいいように使われてしまう状況は十分に監視されなかった。

しかし、その見直しが「派遣禁止」の方向であるならば、せっかく救われかけた中途の方や正社員としての採用を受けられない新卒に誰が救命ボートで近づいてくれようか。

1人の正社員を雇うコストは固定費である。終身雇用が未だに意識の根幹にある企業ならばその正社員を雇うことは2億円超で利息0の35年ローンを組むようなものだ。これが非正規ならば雇うコストは変動費になる。誰が考えたって雇用は今以上に増える。経営側を嫌うあまり、経営側の論理を理解しようともせずに話を進めようとする態度はあまりに恐ろしい。


しかし、世間の多くの部分が日々「ネカフェ難民」や「ワーキングプア」など「働く人は正社員でないとかわいそう」という感情に支配されつつある状況で、「新卒抑制」が「派遣労働」に置き換えられてきた≒硬直化した雇用を流動化させる必要性を意識的に(あるいは、無意識的に)若者に振り向けてきたのではないかという疑問は一般には持たれそうにない。私は「正社員の既得権化」とはそういう意味だと思っている。
最適労働人口から見れば700万人の労働者が余っているという状況や、雇用調整助成金による失業対策を含めばアメリカ並みであるとされる日本の失業率を勘案すれば、雇用の流動化の模索という改革が必要であることには個人的には疑いがないように思う。


しかし、前述の既得権は多少なりこれまでのトレンド通り削られながらもまだまだ守られていくだろう。
なぜならば監視なき流動化にもみくちゃにされ、正社員になれないことを理由に大学が留年を認めるほどの世代について現実的に述べる世の中の論調も、またその世代が社会的に持つ発言力も非常に乏しいからだ。


では、やっとタイトルについて考えるわけだが、もしこのまま雇用関係や形態について何の改革も起こってこないとするならばどうなるだろうか。

これには無数の想像があって然るべきだが、私はそこに「正社員闘争」のようなものが起きてくると思う。かつての団塊世代はそれぞれの昇進を争ってきたのだろうが、この時代の人々は「正社員」という座を争うことになるのではないだろうか。


その理由はこれまで続いた正規労働者を非正規労働者で置き換えていくトレンドが、これからも横たわり続けるだろうからである。その高すぎる「日本人のコスト」のために、今後日本人全体には依然として賃下げ圧力がかかり続ける。
この状況で労働改革が全く進歩を見せない状況が続くならば、「既得権」はこれまで通りに組合活動などを通じて、その賃下げ圧力を是として自分の立場の維持を図るだろう。
そして、労働組合はその賃下げ圧力の前に、全員の正社員というもはや特権とも呼ぶべき立場を維持するほどの力を持ち合わせなくなる。その結果、「非正規への脱落」をやむなく認める人々が出てくるのではないだろうか。こうなればもはや、かつてサラリーマンが競っていた昇進のための戦いは維持のためのそれへとシフトされゆくのかもしれない。


それは「維持できる」という希望を持ち続けた結果、削られながら残ってしまった最後の希望とも捉えることが可能かもしれない。
しかし、それで終わってしまっては以下の事実が伴うのでは?という思考が抹消されてしまう。



そのとき、その時代に新卒となる者に対して、雇用という名の扉はさらに開かれていないのである。*1 *2

*1:この考察からも、現時点で主要に論じられる「ワーク・シェアリング」というものが、その「ワーク」に携わる権利のある者の間だけでワークを融通させる手段なのだという主張に導くことは可能だと考える。

*2:まぁ、偽装請負問題などでの大企業経営者の発言を辿ればそんな状況でも彼らは「自社の雇用は守った」と主張することだろう。