Wall Surrounded Journal

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電力という復興制約と傾斜生産方式

今年も暑いぞと囁かれる2011年。
首都圏の目下の関心はやはり今夏の電力問題だろう。

「ゆるやかな脱原発」が想定される今後において、今年の夏をいかに乗り切るかというのはなかなかに厳しいお話であるかに当初思われた。
しかし、直近では東電と経産省から最大5700万kW供給へというようなニュースも入ってきている。

もちろんこれまで通り電気を使っていいはずはないのだが、この供給力は過去最大の電力消費*1こそ賄えないものの、どう考えても「漏」だろうと思いきや"今年の漢字"がまさかの「暑」だったという2010年のそれには耐えうる水準である。

そんな昨年に機能したような自販機のピークカット*2などもあり、確かに我らがジャイアンの金融庁は「エアコン30度な」と言ってきているにせよ、それぞれの節電マインドもここ最近では最高レベルではとも思うので、よく聞く産業界への25%削減要請というのも個人的にはそんなに要るんですかねぇ…というのがホンネ。

ただ、今後は今以上に原発周辺の情勢が不透明なことが予想されるため、ひょっとしたら短・中期的にもそのくらいのバッファは必要なのかもしれませんね。
なお、ここ最近の「最大電力」は以下の通りであります。

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●[PDF] 電力需要 - 東京電力
http://www.tepco.co.jp/company/corp-com/annai/shiryou/suuhyou/pdf/suh02-j.pdf

さて、こうした状況を考慮して、野口悠紀雄さんがシリーズ「未曾有の大災害 日本はいかに対応すべきか」の第8回にて「供給ショック時の経済政策の目的は、総需要の抑制」というコラムを書いておられるわけですが、興味深い内容でございました。
簡潔に引用すると以下の画像なワケですが、よかったらご一読下さいませ。

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それはさておき、個人的にも、たまたま最近読んでいた本で述べられていた過去の日本のワンシーンが、東日本大震災後の状況と幾ばくか重なるのではないかな、と思う箇所がありました。
それが今回のテーマなのですが、野口さんも上のコラムの最後のまとめで軽く触れておられます。

そして、今回の震災復興と阪神大震災のときのそれとの違いはまさに「長期的な電力不足」だと思うわけでありまして。

そんな状況ならば震災復興期は戦後から朝鮮戦争までの期間にいくらか似ているのかも

終戦直後、最初の復興期において、日本経済は物資に乏しい環境に置かれておりました。
そこでよく語られるキーワードが「傾斜生産方式」です。

さて、その前にもう少し時代背景に触れておかねば。

第2次大戦中の日本は戦費の多くを赤字国債の日銀引受で調達されておりました。
もちろんこの調達は戦争のためでありますから、政府支出は国内にとって「生産的」なものではなく、その状況で日本銀行券だけが増えていくわけですから、必然的にインフレーションを伴うものであります。

戦時中の物価はよって、次第に上昇していくわけですが、政府の統制強化等により、その悪性化は幾分抑えられていたようです。*3
しかし、本土空襲の激化によって鉱工業生産は急減し、敗戦により政府の統制力も緩むこととなり、悪性化を免れていたインフレも爆発的に進行することとなりました。

そんな環境下にあっても、臨時軍事費特別会計からは尚も巨額の支払いが必要であり、また、預金の減少中にもかかわらず軍需会社への特別融資を増やしたために資金不足となった大銀行を救うべく行われた、日銀から民間銀行に対する貸出が増加した結果、日銀券の発行残高は1945年8月15日の303億円から翌年の2月11日の615億円へと半年間で倍増するということに。
結果、卸売・小売価格ともにこの間に倍増しています。

そして当然の結果ではありますが、1945年末から都市大銀行を中心に預金の引き出しが相次ぎ、金融恐慌の危機が迫ってきます。
そこで政府は1946年2月17日に金融緊急措置令、日本銀行券預入令を公布します。

 昭和20年8月15日、第二次世界大戦に敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失ったほか、生産水準も戦前の2〜3割にまで落ち込むなど、大きな痛手を受けた。そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出が散布されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化した。実際、1935年の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍、24年には208倍を記録するなど、復興期の日本経済はハイパーインフレの渦中にあった。
 
 これに対し政府では昭和21年2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める(いわゆる「新円切り替え」)という非常措置を実施した。これは、インフレ進行の阻止というマクロ経済的な目標を、預金封鎖と称される強制的手段に基づく銀行券流通高の減少を通じて達成しようとした、わが国金融史上においても例を見ない緊急かつ直接的な経済対策であった。
 
●第53話 戦後インフレと新円切り替え - 日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_53.htm

この日銀券の強制預入と新円との交換を通じた回収+預金封鎖により流通通貨の量を制限するという力技を行った結果なのですが、再び同ソースの文章を引用すると、

 金融緊急措置の実施に伴い、金融機関からの預金引き出しは厳重に制限された。もっとも、預貯金のすべてが完全に凍結されたわけではなく、一定の生活資金や事業資金については新円での払い出しが認められていたため、封鎖預金の払い戻し請求はかなりの金額に達した。その一方で、銀行券が市中で退蔵され、金融機関へと還流しなかったことから、日本銀行券発行残高は金融緊急措置実施後1か月のうちに6割にまで縮小したが、その後再び増大し、インフレの減速は一時的なものにとどまった。マネーサプライ増大の背景にある財政赤字の削減が、遅々として進まなかったからである。

ここにあるように、一般会計の赤字の日銀ファイナンス、そして民間銀行への日銀貸出も引き続き行われた結果、1946年10月頃から再び物価は急騰を始めます。
なお、この間の鉱工業生産は1934-36年平均と比較して実に12%前後(1945/08)〜35%前後(1946/08)にまで落ち込んでいます。
この後は、このまま回復に至るのかと思いきや、実はこの間の原料調達がそれまで蓄積されていた在庫によるものであったため、ストックの減少にしたがって横ばい傾向に、1947年末までは停滞することとなります。

苦肉かつ行き当たりばったりでスタートする傾斜生産方式

1946年7月当時の政策立案者はこの状況から、石炭・鉄鋼・セメント等の生産回復の遅れから資本減耗の補填が行われない結果、鉄道・港湾・炭坑・発電所等の資本ストックが減少し、結果将来に大幅な生産減を見るのではと目先の危機を認識していたようです。なお、本論から外れてしまうため、その他の業種等に対する立案者の認識については参考文献2を参照下さい。
また、こうした背景から当時の政策立案者らは、短期的には石炭を中心とする基礎資材の生産が重点政策だと考えていたようです。*4

しかし、その前後でも急速に石炭在庫は減っていきます。1946年10月の末にはついに石炭在庫が半月分の供給量を下回るという事態にまで至りました。
そんな環境下でも石炭増産を実現するべく、当時の首相・吉田茂は連合軍最高司令官に対して資材の緊急輸入を要請。幸いなことに、これが受け入れられる運びとなりました。とはいえ、この資材が石炭増産を十分に焦点としていたとはどうやら言えないようです。

また、その要請に対して実現した輸入というのも、塩・銑鉄・揮発油等を中心としたものであったようで、それ以外の資材を満足に入手することは出来ませんでした。
これが、ここまで単語だけ出しておきながらほとんど触れていない「傾斜生産方式」に政府を駆り立てる1ステップとなるのです。

こうした連合軍への輸入要請はその後も行われ、各原料の入手見通しが政府の目に突きつけられることとなります。
結果、「石炭が鋼材の不足により増産が阻まれ、また鋼材も石炭の不足により生産が低下し、炭坑*5への鋼材供給も減少する」という悪循環が、目下避けなければならない事態として浮上してきたのです。

どうしてもそれを避けたい政府は石炭不足・鋼材不足の悪循環を輸入原油によって断ち切ろうと考えます。
重油の輸入→鋼材の生産→炭坑の鋼材需要を充足という流れによる回避策です。
しかし、後にこの重油の輸入も、どれだけ期待してよいのかが不透明という事態となってしまいます。*6

さて、ここでようやく傾斜生産方式について簡単に触れようと思います。
これは1946年10月から、当時の東京大学教授・有沢広巳氏が提案した方法で、当時2千数百トンに留まると予測されていた出炭を何とか3000万トンまで引き上げるべく採られた戦略です。

具体的な方法としては、その実現のために限られた鋼材を炭坑に重点的に配分させ、その結果、増産された石炭を鉄鋼業に多く分配するというものでした。
要は先程述べた「悪循環」をその部分のみにおいて好循環に変えていくという構想です。
「その部分のみにおいて」と述べたのは、この方式が炭坑業や鉄鋼業(また、軍など)以外の産業における石炭や鋼材の配分を犠牲にしたものであるからです。
そうした業種では炭坑業や鉄鋼業よりも著しく厳しい供給ショックが待ち受けることとなるわけです。

傾斜生産によって厳しいながらも一応の目的は達する

結局、この施策により、結果的に日本は縮小再生産の危機を回避することとなります。
傾斜生産方式により、1947年度の出炭高は2934万トンと目標比98%までに至り、1948年以降は鉱工業生産も順調に回復していきます。

なお、この過程ではこうした重点産業に対し、同時に以下のようなことも行われています。

・1947年〜49年4月までの2年3ヶ月にわたり、「復興金融公庫」が産業に設備・運転資金を融資していた
・公定価格と生産原価の差額を価格差補給金として政府が補填していた
・重要な基礎資材も次第に援助輸入として受け入れられるようになった
・一般会計は収支均衡へ
・特別会計赤字の日銀ファイナンスおよび復興金融債の日銀引受と、回収に転じた民間銀行からの対民間への日銀券発行状況がオフセットされ、日銀券増発のテンポ自体は頭打ちになっていく

また、このときは同時にアメリカからの資金援助も受けており、これらの援助や政府補助金、赤字融資などの存在について、海外からは日本が「竹馬に乗った」経済だと指摘されるようになります。
もちろん、これをアメリカの納税者も良く思うはずもないでしょう。この後はドッジ・ラインが突きつけられ、その先の朝鮮戦争にもたらされる特需が待っていたわけですが、このあたりはWikipedia先生やらをご覧下さい。

当然この供給制約が震災後の状況と丸被りだなんて思ってはいませんが

さて、このところの復興についての議論を見ていますと、ここで述べてきたようなものが部分的にちらついてくるわけであります。
というわけで、そろそろ締めにかかりたいわけですが、最後はその表現も込めて、参考文献2の締めの文章を丸ごと持ってきて終わりにしようと思います。

ただし、傾斜生産には、すでに述べた繊維工業に対する影響の他にも、大きな副作用が伴ったことを最後にあらためて強調しておきたい。
いうまでもなく傾斜生産は政府による経済統制を前提とした政策である。

今日では社会主義国の経験を通じて広く知られているように、経済統制は多くの場合、民間経済主体のモラル・ハザードを引き起こす。
傾斜生産が実施された機関の日本経済もその例外ではなかった。

最終的に公定価格引き上げや補給金の増額によって赤字が補填されると期待されたことから企業経営者は生産性上昇や労働組合と対抗するインセンティブを持たず、労働者も企業倒産のおそれがないため、大幅な賃金引上げを要求し続けた。

そしてそのマクロ的な表現が高率のインフレーションであった。


参考文献1

「日本的」経営の連続と断絶 (日本経営史 4)

「日本的」経営の連続と断絶 (日本経営史 4)

参考文献2
「傾斜生産」と日本経済の復興
岡崎哲二(2001/01)
http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/2001/2001cj40.pdf

*1:もちろんピークのね

*2: http://www.jvma.or.jp/information/peakcut.pdf

*3:参考文献1 p.26

*4:ただ、この当時にはまだ石炭と鉄鋼の相互投入(後述)という構想はみられない。

*5:この辺が参考になるかと http://www.kajika.net/kikuchi/20021013-1.htm

*6:このため、立案者は「そもそも期待しない」という方向で生産予測を立てていくことになります。